表現とわたしについて

雑多な日常という名の細い道を歩いていると、度々可笑しいことやびっくりさせられること、思いがけないことと巡り合わせる。それらを感じたり、紙に残したりすることは、例え出来事が喜ばしくないことであっても、私にとって幸福なことである。
しかし私が自分のことについて書くにはそれらより先に、まずこれを記さねばならない。

これまで人生即表現ということを志してきた。それを今やめる。私は堅気になることにした、結婚することにしたのだ。
ほんとうに、這々の体で辿り着いたマレーシア辺りの路地裏で、出来損ないのナシゴレンでも食し見事に腹をくだした挙げ句痛風などを煩い得体の知れない異国の虫達と共に往生したとしても本望、くらいのつもりでいたのだけれど。


私の思想的な精神に「オールスター願望」というようなものがある。例えば、何人かで集まりグループを組んだときに、同じようなメンバーばかりではつまらない。紙の上に書かれたレーダーチャート(蜘蛛の巣グラフ)を想像してみて欲しいが、バランスの取れた似たような数値のチャートばかりを何本重ね合わせても、そこから出来そうなことは限られてくる。ところが仮に酷く歪な三角形のようなチャートがあったとすると、それ単体では必ずしも便宜良く事を運べるとは限らないが、そんな鋭利な三角形がてんでんばらばらの方向に幾重にも重なったとき、人間一人の力じゃどうしても手が届かないところまで網羅出来るかもしれない。
野球に喩えるならバッティングもそれなり守備もそれなりのプレーヤーが大勢集まったチームより、打撃はダメだけど盗塁は上手い。足はホルスタイン並みだが打てば毎回特大アーチ。そんな連中の集まりの方が強い気がするということだ。前者にも「安定して勝てる」というような長所はありそうなものだが、少なくともどちらの試合が観ていて面白いかとなれば比べるまでもないだろう。それがチームプレーの妙というものである。
まして社会で生き抜くことは野球の試合よりも遙かに雑多な能力が求められる。偏っていれば偏っているほどよい。一見まるで役に立ちようがないようなチャートでも良い。平凡を極めるような人が居てもいい(平凡であることはそれ自体が既に個性だ)。どんなふうでも、どんな人間がいてもいい。それでこそ、私たちの試合は面白くなる。
そんなわけで、今回自分が道を変えることに私は何の後悔も迷いも持たないが、ただ私というチャートが、ありきたりでつまらないものになってしまうことについては、申し訳ないと思ってます。また一方で、どうやらこちらが想定していた以上に長い間あなた方とプレイすることが出来そうだという点では、些か喜ばしく感じています。まだまだ二回裏といったところですが、精々プレーさせて頂くので互いに宜しくお願い申し上げます。



そういえば私が故郷を離れた直接的な要因の一つに、小説を完成させる。というようなものがあった。膨大な長編小説を完成させるということはつまり自分のスタイルを確立させるということである。一度は「完成させるまで交友しない」とまで言い放ち、これは後に思い直して謝ったのだけれど。何故そんなことを口にしてしまうのかというと、こう見えて私は本来他者への依存心が比較的昂じ易い質で(要するに甘ったれで)、仲間と結託していてはすぐにその狭い世界だけを拠り所により楽な方楽な方へと怠けてしてしまうことを自覚していたからだ。仲間と遊ぶのは愉しいし、存分に幸福なことであるが、そこに甘んじていたのではスタイルなど確立し得る故もない。いつまでもチャートは月並みなままであり、私はチームのお荷物である。また如何に個性的が善いとは言っても、自分で心身共に自活出来ないようではお話にならない。馴れ合いでは駄目なのだ。プレーヤーはそれぞれに独立し、自分なりの価値判断規準を持たなければならない。学芸会では試合は面白くなるはずがない。
だがそんな個人的な事情を理由に自分達の友情そのものに支障を来してしまうようではあまりに身勝手というもので、私としても本意ではない。前述したように謝罪し「〜交友しない」という取り決めもなしにして頂いた。しかし、とはいえ、だ。
手ぶらでは帰れない。勝手に飛び出したのだから、次に会うときには一回りも二回りも大きくなっているくらいでなければ会わせる顔がない。だが小説はいつまでも完成しない。散文や幾つかの詩群は書き上げたが、肝心の小説は遅々として進まない。何か余程のことでもない限り、やはり会わせる顔がない。そんな最中であった、私の人生は大きく風向きを変えたのは。私は、堅気になることにしたのだ。
それについての是非はこの際いいとして、この落とし前をどう付けるか。そのことで私はこのところずっと悩んでいた。最早どうしても小説を完成させなければならないという理屈はない、かといって再び彼らと打ち解け私が単に明るい家庭を築くだけでは(それでも多分仲間達は喜んでくれるだろうけど)彼らの過去の想いは宙ぶらりんのままだ。心情的にはともかく道理が通らない、とても責任を果たしたとは言えない。そこで私はやはり、小説を書き上げることに決めた。但し期限はなしだ、いつでもいい。老いさらばえてからでもいい。いつか彼らにそれを見せ「なんだ、やっぱ全然駄目じゃん」でも「へぇー、意外に良いんじゃない?」でも、なんでもいいから一言貰う。そうすることで私は初めて自分のケジメが付けられるのではないかと思う。
意地を張るのはもうやめにしよう。格好悪いけど、それはもうしょうがないことにして年末にでも会いに行かせて頂きます。そこでこれまでのことをひとまず謝りたい。



言葉は、表現の遙か上空を駆け巡り触れることが出来ない。だから朝起きて最初に会った人間にとりあえず「おはよう」と言ってみる。すると相手もまた「おはようさん」なんて返してくる。今日は寒いですねぇと言われればそうですねぇと答えたり、答えなかったり。二時間目の休み時間にはC組の田中が足を骨折したことを教えられて、ちょっかいを出しに行き、会社の親睦会ではお説教の体を借りた課長の人生相談を打ち明けられ、それなりの返答を自分なりに考え、実際にそう言ったりする。無論そんな社交辞令的なやり取りの他にも、本当にこちらを喜ばせようという気持ちが伝わってくるようなサプライズニュースから、ソファーに横になって語るともなく語る気取らぬ友人とのくつろいだ会話、恋人との親密な一時、はたまた自殺願望を仄めかす知人に本心から警告したり、実に多種多様なシチュエーションが私たちを取り巻いている。
けれど、それでも私たちは「おはようの窓口」から出ることが出来ない。とりわけ今日ではほとんどの人々がこれと同じ状況に陥っているのではないだろうか。いや、現代ほどそれがはっきりと顕在化している社会はなかった、と言うことも出来るかもしれない。歴史の教科書をぱらぱらと捲ってみると、人間は太古の昔から常にそれを追い求めていたことが面白いほどよく分かる。明確な目的があるもの、必要に迫られてのことを除けば、人間はありとあらゆる手段でそれを紡ぎ出そうとしている。
歴史とは何か、風俗である。では風俗とは何か、表現である。そこに生くる、全ての人々の表現である。「本当の言葉」を手に入れられない代わりに、私達はその輪郭をなぞるように多種多様な表現をしてきたのだった。
“智慧と経験の時代”は遙か彼方に過ぎ去り、”勇気と行動の時代”もまた音を立てて崩れ落ちた。そしてその後にやってきた私達の時代も、もうじき静かに息を引き取ろうとしていた。私達は次の時代に何を託せるのか、果たして追えば追うほど逃げていく「本当の言葉」を手懐けることは出来るのだろうか。装飾品を残らず剥いだ時、人間はこんなにもひ弱だ。しかし、その時に触れる素肌の温かさぐらいは、当たり前にあるものとして、どうか次の時代を始めて頂きたいものである。


キャスターの昔のパッケージを忘れて久しい。私の脳は随分古くなってしまった。比喩ではなく現実に、考えを上手くまとめることが出来ない。人と話す時も前ほど明確に話す内容が浮かんでこない。字を書くのが、怖い。微かに頭蓋骨の内側を何かに抑えつけられてるようなよくl感覚を覚える。1年程前からPALL MALLを吸っていたが、連れがやめて欲しいと言うのでKENTの3mmにした。枯れた年寄りの匂いがする、それも悪くはない。やがて1mmに変えた、本数も減った。
以前の私は名馬であり、同時に名伯楽だった。俊足の馬だった。酸素と水だけでいつまでも永久に走り続けることが出来た。体の奥底で常に灼熱の太陽が燃えて拡がっていた。下らない考えの5つや6つは同時に追いかけることが出来た。下らなくともそのどれもが私にはとても大切なことだった。だが、今は何も思いつかない。何が大事だったのかさえ、今では殆ど思い出すことが出来ない。
この間たまたま母親と話す機会があり、その時「随分話が分かりやすくなったね」と言われた。母が苦慮していることについて言及すると、しきりに感心したりもしていた。こっちとしては意外だったが、確かにそうかもしれない。話の内容に沿ったこと、訊かれたことだけに答えているのだから(というか実際それしか出来ないのだが)相手からしたら耳に入りやすいのだろう。常識的なことに関する物分かりも大分良くなっている。けど、それでは私はそこにいないも同然だ。何より生きているという実感が乏しい。
自分が進んでいるのか、退いているのか分からない。単純に精神が衰えてしまったのか、それとも様々な事柄をわざわざ考えなくとも平気ないわゆる「無私」のような状態に近づきつつあるのか、はたまた全く別のところなのか。進化とは適応であると、生物学者は言った。これから私はどのような適応をし、どのような風景を観ていくことになるのだろうか。
父さん、私は以前より涙もろくなりました。愚にもつかないお涙頂戴ものの話なんかを聞いては不覚にもホロッときたりします。些細なことで喜んだりします。どのみち煙草は千円になったらやめようと思います。たまには丸一日くらいゆっくりして下さい。お母さんと、仲良くね。


インターネットは新しい表現の場だ。近年ではその敷居もどんどん低くなり、誰がどのようなことを書いても許されている。それこそ好きな人の泣きぼくろの位置から、ゲーデルの不完全性定理に到るまで、場所さえ間違えなければ驚くべき広大なスペースが用意されているし、また新たに作ることも出来る。
けれどその潤沢な設備に伴わず、そこにはある決定的な制限がある。つまるところこれらのスペースは皆何らかの形で繋がっており、新規ユーザーにとってほぼ全ては「議論し尽くされたこと」なのである。あらゆる疑問には回答(あるいは暫定的な回答)があり、GoogleやWikipediaに代表させるようにこれらがひとつの大きな権威として既に確立している。物事を調べるには便利だが、個人の力はもはや殆ど役に立たず、全体主義的な秩序がおおよその正義として成り立っている。知識や経験はここではもう個の財産とは言えない、みんなの文化遺産でというわけだ。
しかしあまりに配慮されすぎた環境は、ユーザーの知的好奇心を満足させすぎ、つまりは衰退させ、個人が持つ純粋で無鉄砲な熱意を摩耗させるという向きも見られる。その結果行われる多くは「知る者」と「知らざる者」の極めてシンプルな情報伝達に留まり、訳の分からない方向に転がっていくことも、そこから新しいものへと発展していくことも(個人としては)あまりない。もしくは、単なる井戸端会議のどちらかということになる(実際はこちらが大半だが)。
ネットの世界を眺めたり遊んだりするのは楽しい。楽しいが、また人間一人の所有物としては大きすぎるのも事実だ。刺激はもう5年分くらい貰った。充分だ。私はこのブログを更新することと、ごく僅かなサイトを閲覧することを除いて、これまでしてきた活動を縮小しようと思う。それはかなり以前から考えていたことだけど、ついいつもの悪い癖で、ずるずると引き延ばしてきてしまった。いい機会だし、これからはもっと外を走ったり、闘ったり、遊んだりすることが多くなっていくと思う。
皆さん、もし見かけたら何でも相手になるので、そのときはよろしく。
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